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教養の力

2013年12月 4日

1991年の大学設置基準改定により、設置基準の大綱化が進められ、教養部がおかれている大学は「教養」の意味を深く問うこともなく、次々と教養部を廃止していった。一方、それに呼応するかのように教養主義の崩壊ということも話題になり、竹内洋の『教養主義の没落』という書物が出版されたのが2003年のことである。

それから10年。今では「教養」という言葉もあまり聞かれないようになっている感がある。

「教養」で思い出すのは、私の教養部時代。学園祭の一環であったと思うのだが、グループ対抗の合唱コンテストがあり、私のクラスも参加することになり、たしか6、7名でグループを作って参加し、文学部なので女子学生も比較的多く混声合唱グループということになった。さて、肝心の歌だけれども、いったい何を歌ったかはすっかり忘れてしまっている。覚えているのはただ指揮者が後に国文学科に進学し卒業後は朝日放送に勤めたI君だったことだけである。

結果は3位か入賞かで、賞品をもらって、大学近くに住んでおられたクラス担任のS先生の所へみんなで報告に押しかけた。

そのときに先生はご自身の若いときの思い出話をされた。先生は学徒動員で中国の戦線にかりだされ、戦場で銃を構えたことが何度もあったようである。生きるか死ぬかの戦場で、しかし、全体の状況も顧みずに、命令もないのに、恐怖に駆り立てられてやみくもに突撃していくということは、こと学徒動員の兵士に限ってはなかったということである。このときS先生が「教養」という言葉を使われたかどうか自信はないが、当時18歳の私には「教養」のあるなしが生死を分けたという先生の話は心に深く刻まれることになった。

「教養」ということを考えるとき私はいつもこのことを思い出す。もちろん今は戦場のような極限的な状況にわたしたちはおかれているわけではない。しかし、様々な場面で判断を迫られることは日常生活の中でも多々ある。このとき、全体を見渡して理性的な判断をするには、知識の蓄積と同時に「教養」の力が必要なのではないだろうか。

あらためて問うてみなければなるまい、「教養」とはなにかと。