2014年5月29日
本年度は4月1日に入学宣誓式が行われましたが、もう2ヶ月が経過しようとしています。春が過ぎ、梅雨のあとには夏。四季に恵まれた日本ならではの自然の変化が私たちの目を楽しませてくれます。
我が家の狭い庭でもコブシの花が咲き、チューリップ、モッコウバラ、そして5月も終わろうとしている今はクレマチスとヤマボウシが花盛りです。アジサイも咲き始めています。
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2014年1月16日
新しい年を迎え気分も新たにこの1年を迎えるというのがお正月という行事でしょうが、このアジア的な習慣、行事は物理的に経過する時間にメリハリをつけ、人間の日々の営みにアクセントをつけてくれるということで極めて意義深いものだと言えます。
1月というと冬の季節がさらに進み、雪の便りもあちこちで聞かれるということになります。四季の移り変わりに恵まれたこの国で、その変化を身近に感じるには自然の中に出ていくのが一番です。そしてこれがわたしの場合、山ということになります。
(2013年12月8日 堂満岳山頂に向かって)
わたしが山に出かけるのも自然とふれあい四季の変化を肌で感じたいというのが一番大きな理由です。山に出かけるときには天気予報をにらみ十分な準備をして出発します。単独登山を行わず、日帰り登山で安全第一というのがわたしの原則で、週末に妻と出かけますので「週末登山家K夫妻」と呼ばれることもあります。
さて、日帰り登山で行くところと言えば、京都に住んでいるわたしたちが行けるところはある意味で限られています。これまでよく出かけているところは、滋賀県の比良山系、京都の北山、西山といったところです。昨年はお誘い頂いたので鈴鹿山系、あるいは大峰山系まで遠出しましたが、遠出をするときには朝早く起きなければなりませんので、毎週、毎週というわけにはいきません。
昨年は比良山系の武奈ヶ岳に50回目の登頂を果たし、山仲間に祝ってもらったのですが、7年間で妻と二人で達成したというのはちょっとユニークな記録ではないかと思っています。
(2013年11月17日 武奈ヶ岳)
武奈ヶ岳に登るのにはいくつかコースがありますが、この武奈ヶ岳で黙々と登山道の整備をしてくださっている方が一人だけではなく何人かおられます。お一人は北比良峠から大山口に至るダケ道を整備してくださっている方、また高層湿原のある八雲ヶ原で清掃・管理をしてくださっている方、はたまた八雲ヶ原から金糞峠までの奥の深谷の沢の橋を整備してくださっている方々、すべては山を愛するがために、登山者に気持ちよく山行ができるようにと自発的に整備をしてくださっているのです。どれだけわたしたちが助かっているか、数え上げればきりがありません。
ボランティア(ヴォランティア)という言葉はラテン語のvoluntarius(ウォルンターリウス)「自発的に行う者」という形容詞由来の名詞から来ていますが、さらにもとをたどれば動詞volo(ウォロー)に行き着きます。この動詞は「欲する、望む」という意味です。ここから「自ら望んで、自発的に行動する人」=ボランティアということにつながっていったのでしょう。
山に登るときにはいつもこういう山のボランティアに感謝しています。また、どこかで自分も貢献できないかと考えて山を楽しんでいます。
わたしの山行記録に興味がおありの方は、「木村健治研究室」で検索してみてください。
2013年12月 4日
1991年の大学設置基準改定により、設置基準の大綱化が進められ、教養部がおかれている大学は「教養」の意味を深く問うこともなく、次々と教養部を廃止していった。一方、それに呼応するかのように教養主義の崩壊ということも話題になり、竹内洋の『教養主義の没落』という書物が出版されたのが2003年のことである。
それから10年。今では「教養」という言葉もあまり聞かれないようになっている感がある。
「教養」で思い出すのは、私の教養部時代。学園祭の一環であったと思うのだが、グループ対抗の合唱コンテストがあり、私のクラスも参加することになり、たしか6、7名でグループを作って参加し、文学部なので女子学生も比較的多く混声合唱グループということになった。さて、肝心の歌だけれども、いったい何を歌ったかはすっかり忘れてしまっている。覚えているのはただ指揮者が後に国文学科に進学し卒業後は朝日放送に勤めたI君だったことだけである。
結果は3位か入賞かで、賞品をもらって、大学近くに住んでおられたクラス担任のS先生の所へみんなで報告に押しかけた。
そのときに先生はご自身の若いときの思い出話をされた。先生は学徒動員で中国の戦線にかりだされ、戦場で銃を構えたことが何度もあったようである。生きるか死ぬかの戦場で、しかし、全体の状況も顧みずに、命令もないのに、恐怖に駆り立てられてやみくもに突撃していくということは、こと学徒動員の兵士に限ってはなかったということである。このときS先生が「教養」という言葉を使われたかどうか自信はないが、当時18歳の私には「教養」のあるなしが生死を分けたという先生の話は心に深く刻まれることになった。
「教養」ということを考えるとき私はいつもこのことを思い出す。もちろん今は戦場のような極限的な状況にわたしたちはおかれているわけではない。しかし、様々な場面で判断を迫られることは日常生活の中でも多々ある。このとき、全体を見渡して理性的な判断をするには、知識の蓄積と同時に「教養」の力が必要なのではないだろうか。
あらためて問うてみなければなるまい、「教養」とはなにかと。